素敵な演奏家との出会い
若い頃には、クラシックの演奏会に、よく足を運びました。そして、素敵な演奏家の奏でる音楽を聴くことに、喜びを感じていました。
演奏会のチケットは、決して安いものではありませんでした。しかし、お金を工面して、演奏会に出かけるということは、わたしにとって、この上ない喜びとなっていたのでした。
また、レコードもよく購入しました。CDというものが発売されるまでは、音源はLPレコードに限られていました。しかし、LPレコードというものは、針を落とす瞬間が、喜びを導いてくれるのでした。CDが主流となってからは、そういったものを感じる機会が少なくなったと思っています。
このように、音源が変わっても、音楽を聴く喜びは変わっていません。また、素敵な演奏家を求める気持ちも変わっていません。
ただ、残念なことに、演奏会に出かける機会が減ってしまいました。いなかに住んでいると、コンサートホールは近くにありません。そんなこともあって、足が遠のいてしまうのです。絶対音感を持つほどの音楽的才能を持っていれば、音楽の世界で生きていく上では非常に有利であり無いに越したことはないほどの立派な人間としての特殊能力と言える。しかし日常生活を過ごす中で、絶対音感を持っている人は一体どれほどの苦労と不愉快な思いをしているのだろうか。聴こえてくる全ての音が、ドレミファソラシドなんだから。便器を流すトイレの水の音も、車が道路を走っていく音も。鳥のさえずりや風の吹く音、工事の耳障り音も玄関のドアをノックされる音さえも。少しオーバーな言い方かもしれないけど、絶対音感を持つ人はきっと耳を塞ぎたくなるのではないか?と考えたりします。日常的に聴こえてくる全ての音が協和音ならいい。きれいなハーモニーだったらいいかもしれない。でもそれは絶対にありえないことだ。今日もありとあらゆる場所で鳴っている音は、人の声を含め自然音ばかり。ヘルツで調律しない自然音に協和音はあり得なくて不協和音しか生まないはずなのだから。ですので絶対音感を持つ人は皆、「気にしない」訓練をするのですね。
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